今日の東京は晴れのち曇り、夜は雨が降る予報となっています。
日中の気温は20度ほどと春らしい陽気となりました。
時折さぁーと吹く風も暖かく、あぁ春が来たなぁ…と感じております♪
ただ朝晩の気温はまだひとケタ台。
ちょっと気を抜くと風邪をひくかも…気を付けないといけないですね!
今日はよく寝ました。
昨晩、猛烈な睡魔が襲ってきたのが夜10時半。
すごすご布団に入ったら、すぐ寝てしまったようで。
ハッと気づくと朝の10時半。
おおっ、なんと12時間も寝ていたのですね。
こんなに寝たのは久しぶりです。どおりでお腰が…痛いですぅ~♪♪
(寝すぎですな。まぁぐっすり休めたし、嬉しい悲鳴ですなぁー😊)
昨日、今日と本郷和人さんの「軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代の
リアル(2018年朝日新聞出版)」を読んでおりました。
本郷さんは東京大学史料編纂所の教授で、日本の中世史を専門とされています。
さらっと読める本が多いので、時々お休みの日に拝見しております。
(今日は少し固い内容かもしれませんが♪♪、本の内容をご紹介したいと思います~😊)
本郷さんはこの本の冒頭でまず語ります。
戦いや戦場の実態を知るには、歴史を科学的に検証するよりほかにないだろう。
戦争は絶対にしてはいけないものです。
戦後、戦争について正面から研究に取り組んでこなかった。
戦後のマルクス主義を中心とした、どちらかというと敗戦によって戦に触れる
ことがタブー視されてきた…そのような雰囲気に「それで良いのか」とずっと
投げかけてきている…と(一部要約させていただきました)。
戦うとは何か、それをリアルに科学的に考えたい、それが武士の軍事や戦に
こだわる本郷さんの出発点だと話されています(P20~25)。
更に本郷さんは続けます。
戦争には①戦術、②戦略、③兵站、そして④兵力、⑤装備、⑥大義名分が必要であると
その後の各章では①から⑥について、具体の戦の事例を基に、戦争とは何か…
ということを平易な言葉で述べられています。
「そもそも戦いとは何か?」
戦うというからには、「何となくAとBが戦った」という曖昧なことでは済みません。
仮にAとBが戦うのであればどちらかが先に「戦いを起こそう」と強く思わなければ
始まらない。
その考え方の根底には、これまで見てきたように、戦争にはカネがかかる⇒だから
やりたくない⇒でもカネをかけてでもやらなきゃならないときがある⇒そのとき
初めて戦争が始まる。
つまり、戦争をするには理由がある。それを第一に考えるべきだろうと思うのです。
AとBのどちらが戦いを仕掛けたのか?仕掛けた側にはどんな目的があったのか?
その目的を成し遂げるために戦うのですから、その目的を調べてそれが達成されて
いればAの勝ち、その目的が達成されていなければAの敗北。そう考えるのが
もっとも理にかなっていて、かつ実にシンプルだと思います(P74)。
本郷さんは関ケ原界隈で起こった二つの戦の事例を比較されています。
ひとつは青野原の戦い。
1338年、南北朝時代に起きた出来事です。
それを阻止しようと北朝方、足利尊氏側の高師泰、土岐頼遠などが関ケ原近くで
迎え撃ち、激突した戦いです。
戦いは北畠顕家が勝ちました。しかしながら被害も大きかったことから、北畠顕家は
京都入りを諦め、伊勢を経由して奈良へと抜け、最後に堺で高師直に敗れ討死します。
南朝方の目的は京都入りすること。北朝方の目的は南朝方を通せんぼすること。
戦い自体は北畠顕家が勝ちましたが、目的から言うと北朝方の勝ち。
Aの目的が達成されたらAの勝ち、達成されなければAの負け。
負けるが勝ちであった…と本郷氏は語ります(第二章P53~)。
(今の学問の世界では北畠顕家の勝利を称賛することが多く、本来の戦闘理解の中では
そういった理解がなされていないものが多いと本郷さんは呟かれています…)
もうひとつの事例はご存じ、関ケ原の戦いです。
青野原の戦いと同じ構図。
本郷さんは語ります。
西軍の総大将は、石田三成でも毛利輝元でもなく、豊臣秀頼その人です。
徳川家康にすれば、大坂城に入って豊臣秀頼の制裁与奪の権を握ることこそ、
勝利の証しです。鎌倉時代であれば将軍の取り合いをめぐって戦いは起きたし
のちの明治維新になると天皇の取り合いが勝敗を決したことを見ても、
関ヶ原の戦いにおいては「誰が豊臣秀頼を確保するか」ということが
勝者を決める決定打になったのです。
⇒そのとおりだなぁ…と思いました。
本郷さんは続けます。
…妄想してみます。西軍の形勢不利となったとき、宇喜多秀家の部隊が全滅覚悟で
戦場に残り、石田三成や小西行長の部隊を関ケ原から離脱させることに成功していれば
そして大坂城にいた毛利輝元が秀頼を担いで関ケ原をめざしてやって来ていたらどう
なったのか…。まさに歴史における「IF」です。こうなれば、負けたのは徳川家康
だったかもしれません。
このころすでに家康側に寝返っていた、もともとの豊臣方の福島正則、黒田長政、細川
忠興、池田輝政といった大名たちは、実のところ、徳川家康にそれほど恩義を感じて
いなかったと言われます。であれば彼らがどんな行動を取ったのか…。
福島たちは「秀頼様が出てくるのなら話は別」と考え、関ケ原の戦い第2ラウンドが
あったかもしれません。
(第五章P124~。こんな考えを聞くと、歴史って面白いなと思います♪♪)
他の章立ても興味深いものでした。
上杉謙信と武田信玄が戦った、四度目の川中島の戦いにも触れています。
(第二章P60~)
どちら側が攻めたのか。先に兵を出したのは上杉軍です。つまり上杉謙信が先に動いた
だから戦いを引き起こしたのは上杉であることは明白です。その目的は北信濃の領有権
を取り戻すために上杉謙信は越後の春日山城から南下してきた。それを迎え撃つために
武田信玄が甲州からやって来た。つまり、攻める側は上杉謙信で、守る側が武田信玄で
ある。武田軍は副将や重臣を失うが最後まで戦場に残っていた。敗走したのは上杉の
軍勢です。
上杉が仕掛けた目的は、北信濃約十万石の領地を上杉家のものにするためです。
けれども実際この戦いのあと、信濃全体四十万石のうちの、北信濃十万石は武田信玄の
支配下にあり続けた。結果的に、上杉家はその領有に失敗して春日山へ逃げ帰った。
つまりこの地の領有を諦めた。となれば、これは武田信玄が勝ったと言わざるを得ない
それが合理的な判断です。
川中島の戦いは「引き分け」という判定が主流となっているが、そうではない…と
本郷さんは語っておられます。
(なるほどなぁ…としみじみ思いました)
他にも、海音寺潮五郎と新田次郎さんが川中島の戦いの勝敗について議論した話が紹介
されていたり、戦前の皇国史観にも触れられていたり…参考になりました。
(時にはこのような本も…さらっと読めますので、ふとした合間にいかがでしょうか。
図書館にも置いてあるかと思いますので…♪)
土手で本郷さんの本を読み直していて、ふと今のウクライナ情勢を想いました…。
攻めてきたのはロシア、守るのはウクライナと報道されていますが、
最初にちょっかいを出したのはウクライナという報道もありました。
それでも大規模な戦争を始めたのはロシアなのでしょう。
戦術、戦略、兵站…
例えば、
①クリミア半島とロシアをつなぐルートを作りたい
②東部地域をロシアの勢力圏内としてより固めたい
③ウクライナを焦土化して(シリアのように…)NATO加盟の機運を萎ませて
かつ、NATOとロシアの間の事実上の緩衝地帯とする
といった報道も見かけますが、そうだとするとロシアのペースなのだろうか…。
でも何となくそうではなくて、行き当たりばったり感も感じるんですよね…。
兵站は両軍とも上手くいってませんし…。
では兵力、装備、大義名分は…
兵力、装備は…微妙なのかも…。
ただひとつ言えることは、この戦争には大義名分はまったくありませんよね。
なのでロシア軍の士気も低く、反乱も起きているという報道もあったりします。
本郷さんの語る指標を照らし合わせてみても、なんともしっくりきません。
21世紀になってまで、どうしてこんなことをしているのでしょう。
(戦国時代と比べても…ううむ…この戦、終わりも見えないし、全く理解できない…
前の、そのまた前の大戦もこんな感じで始まってしまったのでしょうか…)
せっかくコロナも少しずつ収まってきていて、さぁこれから…と思っていた
ところでしたのに…。
土手に座って、遠くを眺めて、ふとそんなことを想っておりました。
⇒あ、ひとりごとが長くなってすみません。通りすがりのひとりごとですから…。
帰りがけ、戸田市の銭湯「健晃湯」さんに寄りました。
手足を伸ばして、の~んびり浸かって…本日も温冷浴の繰り返しです♪
ぼぉーとして、頭の中もすっからかんになったかも😊😊
いやぁ~ポカポカになりましたです、はい。
(今日はスチームサウナがめっちゃ熱かった…機械の調子が悪かったのでは?)
今週も始まりますね。
目の前のことを、少しずつ…できるところからやっていきましょうか。
明日も元気に笑顔でいきましょう~😊😊
今日は荒川の土手でのんびりしながら、本郷さんの本の内容を振り返った一日でした。
ではでは!
最後までご覧いただいてありがとうございます! お礼申し上げます!!